浄土真宗と武田信玄についてです。
両者には意外と深い関係があるのですが、折しもNHKの大河ドラマ「風林火山」が放映されていた中で、この風林火山を契機として、500年の歳月を経て、はじめて武田信玄の研究者と浄土真宗歴史の研究者が共同して、研究が進められた結果、新たな発見が数多く出てきているところです。
そもそも浄土真宗と武田信玄の関係の発端ですが、本願寺第11代御門主顕如上人のお裏方(奥方)は、京都公家社会でも太政大臣という名門三条家の出で、武田信玄に嫁がれた三条夫人の妹君でしたので、当時武田家と本願寺御門主は親戚関係にありました。
武田信玄は、幼少の頃から帝王学を学び、特に師として大きな影響を及ぼしたのが、禅の高僧たちで、そのうち臨済宗の岐秀元伯は信玄が永禄2年39歳で出家得度したとき「信玄」の法号を与えたことでも知られておりますが、当時の武将のなかでは傑出して仏教に造詣が深く、宗派を問わず信玄を慕って迫害を受けていた僧たちが、甲斐の国を訪れ寺院を建立していました。
仏教に非常に理解のある武田信玄と親戚関係になった即如門主は、すぐに盟約を結び、当時宗教弾圧を行っていた織田信長などに対抗する措置をとっていました。
浄土真宗は800年近い歴史の中で、念仏の道を伝えてきましたが、その歴史は決して平坦なものではありませんでした。特に戦国時代仏教徒は、多くの宗教弾圧に直面しました。織田信長による比叡山焼き討ちは有名ですが、同時期に標的にされたのが、鎌倉仏教のなかでも最も勢力が強かった親鸞聖人が開宗した浄土真宗でした。
その当時の本願寺は大阪石山にありましたが、ここは当初は家もない畑のなかでしたが、交通の要所にあたるところで、商業都市の堺へも便利な場所であったので、大きな寺内町(門前町)が発展し、周りには堀や土居をめぐらす城塞となっていました。ここで10年間続いた石山戦争は歴史書にもよく出てきますが、武田家と本願寺の共通の敵である織田信長との戦いでは、両者が密接に連絡を取り合っていたことが古文書により次第に明らかになってきています。
ちなみに、武田信玄が上洛の大義としたのは、仏敵打倒、信長に焼き払われた比叡山の堂塔の再建でした。この上洛の道半ばで病死したため、その後武田家の滅亡や浄土真宗をはじめ仏教は苦難の道をさらに歩むことになります。もしこの時信玄が亡くならなければ歴史は変わっただろうと云われています。
石山戦争については、全国の門信徒がはせ参じ、織田信長をしても攻めきれず、豊臣秀吉によって和睦が成立し、秀吉はもともと本山があった京都に土地を寄進し、現在世界遺産となっている西本願寺が建立され、石山の跡地に大阪城を築城した歴史がありますので、今では城下町の印象がありますが、もともとは本願寺の門前町として栄えたところです。
ちなみに、東本願寺はその後、徳川家康が土地を寄進してたてられたもので、その時から浄土真宗は東西に分かれることになりました。